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母なる証明 [映画]

5年ぶり、韓国映画に登場のウォンビン君。(2009年秋公開。ポン・ジュノ監督作品)

少し前に、ある女性ピアニストに音楽の楽しみ方について聞いたときのことだけど、その音楽家は奏でられる音色を聴きながら自由に想像の世界に遊んでほしいと言う。コンサートにでかけると、音楽を聴きながら、ついいろいろなことを考えたり思い出したり想像したり浮遊してしまう私は、もっと集中しなければと現実の世界に戻ることにいつも苦労していたので、その言葉を聞いて、なんだ、それでよかったのかと胸のつかえが下りたのだった。フワフワ自由にしてていいんだ。

目の前に映し出される映像を見て、その世界に入り込んでいく映画は少し違うかもしれないけれど、映像の上に重ね合わせていくものは一人一人違っているはずだ。たとえば、目の前に枯れ野が広がっていたとして、空恐ろしい気配を感じる人もいれば、開放感を感じる人もいるだろう。その映像がどんなものにつながっていくかというのは、その人が今まで見てきたものによって違ってくる。重ねるものがそれぞれ違うわけだから、同じ映像を見てはいるけど誰一人同じものを見ているわけではないということになる。

韓国映画は、艶やかで濡れたような映像が印象的だ。韓国映画と一括りに語ることは非常に乱暴なことだけど、私が観てきたいくつかの見応えのある韓国映画はみんな、艶がある。さて、この映画はどうだろう? 登場するのは一人の母親と、精神的に少し幼い一人息子ウォンビン君。子どもの心を持ったまま純真無垢に育ったウォンビン君は、あろうことか女子高校生殺人事件の容疑者として拘束されてしまう。母親は、息子の無実を証明しようと奔走する。息子を助けるためなら何だってするし、何者も怖れない。子を守り育て、大きな破壊力を持つというグレートマザーをまさに具現している。この母親をウザイと思う人もいれば、ありがたいと思う人もいるだろう。こんなふうに母親に守ってもらいたいと思う人だっているかもしれない。自分の身の周りを見回してみたって、何かあればママのスカートの下に実際に隠れるんじゃないかと思うような大の男がゴマンといる世の中だ。(こうした男は、歯を食いしばって耐え抜くことで見えてくるそれまでとは次元の違う世界を掴むことができない)

私が教えている幼児の水泳教室に「できません」「できません」と言う男の子がいる。標準的な体格の5歳児で、いや、少し大きいほうかもしれない。常に半泣きで、足が届くところでも縮こまって、水の中を歩くことさえできない。少し無理をさせようとするとプールの縁にしがみついて泣きじゃくる始末だ。水が怖いというのではない。肩につかまらせて水の中を動かしてあげる「おさかなさん」は大好きなのだ。どうも、新しいことをするのが怖いみたいで尻込みしてばかりだ。「5歳で、できませんとはなんだ。そんなことじゃ、これから先できないことばかり増えていくぞ。今からそんな壁を作ってばかりで、どうやって生きていくつもりだ。バカたれ! 自分でストップかけてどうする」と言いたいところだけど、それは抑えて。5歳児に説教しても何の解決にもならない。とにかく、これから、できませんというのを絶対に言わないよう固く約束させて、抱っこして水の中に入れて、片足ずつ水底に伸ばしていく。「ほら、足が届くでしょ。大丈夫」そう励ましながら、両足とも床に伸ばす。「できたね! エライね! じゃあ、今度はビート板を持って歩いてみようか」と次なるステップへ。コーチの腕をしっかりつかんで歩きながら「こわいから、放さないでよ」と不安そうにしているので、しばらくつかまらせておくと、そのうち他の子どもたちと勝手に遊び始める。水の中でほんの少し自由に体を動かすことができただけで、強ばっていた体が伸びていきいきしてくる。できないと言って逃げまどっていたのを自分で乗り越えたことで、ちょっぴり自信がついたのか、まるで別人になっている。ものすごく簡単なことを乗り越えて、彼の世界がぐんと広がったのを目の当たりにして、「ああ、これ、これ!」と思う。人が成長していくのを見るのは、なんて気持ちがいいんだろう。

周りの大人が必要なときにちょっと手助けするだけで、子どもは自分の力でぐんぐん伸びていく。近道を選ばせたり、かばって守りすぎたり、その子どもの言いなりになって「いいよ、いいよ」とやり過ごすことは、ただの怠慢でしかない。子どもの成長の邪魔になるだけだ。いつか育ち損なった子どもが、モンスターに化けることだってある。

映画の中、どしゃ降りの雨の中を行くこの母親を追いかけながら、生かす母、そして破壊する母の二面性を持つグレートマザーについてずっと考えていた。


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ココ・シャネル [映画]

2009年夏、公開の映画。

この映画は、有名ブランド「シャネル」をつくりあげたガブリエル“ココ”シャネルの物語。母親を亡くし、孤児院で育ち、お針子から帽子デザイナーになり、ファッション・ブランドを立ち上げていくシャネルの成功と挫折を描く。
残念ながら、シャネルスーツもバッグもコサージュも持ってないけど、シャネルはお気に入りのデザイナーだ。(CHANNELならあるけど…… ^_^; )
シャネルのデザインはゴージャスでいかがわしくて、素っ気ない素振りなのに愛嬌があって、はっきりしているのにとらえどころがなくて、そういう二面性があるところに魅力を感じる。

シャネル伝説は、聞く人によって言うことが違うといわれるくらいさまざまある。この映画も、その中の一つをチョイスしたものだ。有名になると、いや、ならなくても、人は思い思いに誰かの噂をするものだし、本人が「こう思われたい」というイメージが強い場合は、真実を思い切りねじ曲げて通そうとすることだってある。シャネルの実人生がどうだったのかは謎に包まれているが、シャネルが残したモードの中に、すべては表現されている。人は、どこかしらに「自分の本当のこと」を表出しなければ気がすまない生き物である。どんな嘘つきも、ふと漏れる吐息の中に真実をこぼしてしまうものだ。

何かを発信するのに今ほど自由ではない時代に、独自の表現を形にしていったシャネル。誰にも止めることができないエネルギーに満ちあふれていて、いったい、そのエネルギーがどこから出てくるものなのか。それが知りたい。
おそらく、体じゅうにものすごい怒りをマグマのように煮えたぎらせて表現していたのではないだろうか。自分を見捨てた父親に、自分が生きている時代のフランスの身分階級に、体を縛りつけるファッションに、身に降りかかってくるすべての不自由さに彼女は全身全霊で怒っていたのではないか。怒りを、誰かにぶつければ迷惑な存在になるだけだが、彼女はモードの世界に情熱を傾けて昇華していったのだと思う。挫折も失敗も次へのエネルギーに変えて。
見終わった後は、「アタシもがんばらなきゃ!」と、なんだかわからないけど元気が出てくる。シャネルのエネルギーが注入されたのかもしれない。



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ポール・モランが書いた『獅子座の女シャネル』があったのを思いだして、読み返してみる。パリが最も輝いていた時代、ディアギレフ、コクトー、サティ、ミヨー、ピカソといった芸術家たちに囲まれたシャネルの暮らしぶりが伺える。




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キング・コーン [映画]

ボクらの体はコーンでできている!

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見渡す限り緑色が続くアイオワ州のトウモロコシ畑。トウモロコシはアメリカで最も生産量の多い穀物で、食の王様といっても過言ではない。で、キング・コングではなくキング・コーンを描いた映画がこれ。
トウモロコシはスナック菓子やコーンスープ、ハンバーガーの原材料はもちろんのこと、トウモロコシ飼料を食べて育った鶏肉や牛肉を食べたり、トウモロコシ飼料を食べて育った牛からとれる牛乳をゴクゴク飲んでいるわけだし、炭酸飲料に入っている甘味料もトウモロコシで作ったコーンシロップだし、多くの食品添加物にはトウモロコシがめいっぱい使われているし。最近では、バイオ燃料としてガソリンの代わりに車まで走らせている。こんなに私たちはトウモロコシに囲まれて生きてるのね〜ということに改めて気づかされる。
若者二人が、このトウモロコシの生産を手掛けてみたら……?
遺伝子組み換えされた種子や、強力な除草剤を使って簡単に収穫ができたものの儲けはなくマイナスの収支。政府からの助成金を受けてやっと儲けが出る始末。
作っても儲けにならなくて、しかも作ったトウモロコシはそのままでは不味くて食べられた代物ではなくて。「わしらはクズを作っているんだ」とつぶやく農家の人。どこまでもどこまでも広がるトウモロコシ畑を見てなんだか暗澹たる気持ちになってくる。今や、なくてはならないコーン。ずいぶんねじれた食の王様だ。生育を見守りながら、いろいろなことを考えさせられる。
声高に批判したりするシーンは全くなくて、ただ、炭酸飲料を毎日飲んで肥満して糖尿病を患った人たちが登場したり、本来は牧草を食べて健康に育つ牛を狭いところに囲い込んでコーンを食べさせて育てる姿が淡々と映し出される。コーンを食べて育った牛は病気になりやすいらしい。ペプシやコカ・コーラ、マクドナルド。現代のアメリカの食を向こうに回して、あっさりとNO! を突きつける。こんなダメ出ししてもいいのかしら? と、見ながら小心者はヒヤヒヤしてくる。
甘くて明るくてポップなアメリカの食べ物。コーンを追いかけてみると、ぽろぽろメッキが剥がれていくようで……。日々の食べ物、よく見て考えて口にしなければアブナイです。
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天安門、恋人たち [映画]

光を求めれば、闇を怖れることもない

題名から想像したのは、天安門事件によって恋人たちが離ればなれになるとか、そんな切ないラブストーリーだった。原題は頤和園、英題ではSummer Palace。初夏の夕刻に観るのにぴったりのタイトルだ。物語は中国の学生たちの甘酸っぱい青春のひとときを綴ったもの、と言ってしまえば簡単なのだけど。そこに天安門事件が絡み、高度成長していく時代が重なり、非常に複雑な構造になっている。といっても、この映画での天安門事件の描き方は学生たちが殺されるわけでもなく、ビール瓶を割って叫び声を上げるくらい。昔、日本の学生運動の多くはファッション感覚で参加していたという話を聞いたことがある。混同しては物事を見誤るかもしれないが、渦中にいるのは過激な人たちばかりではないということは確かだ。

この映画は2006年、カンヌ国際映画祭に出品されたが、「技術的に問題がある」という理由で、中国国内での上映禁止とロウ・イエ監督の5年間の表現活動禁止という処分を受けている。タブー視されている天安門事件を扱い、過激なセックス・シーンもあるが、それだけではない何かがあるような。描かれているのは、一人の若い女性が東北地方の街を出て、北京の名門大学に入り、地方都市を彷徨うまでの10年の姿だけど、目の前に映し出されているものをそのまま単純に受け取るだけではいけないのではないか、そんな気がする。決して自由にできない表現。その裏でいったい何が言いたいのだろうと暗示しているものを推し量りながら映像を追いかけていく。

主人公は中国と北朝鮮の国境沿いの地方に住むユー・ホン。早熟で衝動的で、一口でいうと混乱している女性だ。幼い子どものように無邪気に笑っているかと思えば、まるで獲物にかぶりつく肉食獣のように性欲をたぎらせたり、一人の女性の中にさまざまな顔が同居している。その顔が行ったり来たり不安定に揺れ動いて、ある時は微かに、ある時は目一杯振り切れて激震になったりと落ち着くことはない。申し分のない恋人がいても、失うのが怖くて自分から別れを切り出したり、駄々っ子のように泣き喚いたり、恋人に去られると手近な男と寝てみたり。

不安定な揺れは、周囲の人間に伝染し奇妙な化学変化を起こす。けれども、それがユー・ホンのせいなのだと言い切ってしまうことはできない。人間は一人ひとりが複雑な感情を持って生きているからだ。人びとは影響を受けながらも、それぞれの道に向かって変化していく。ユー・ホンは独り、希望を捨ててはいないと言いながらボロボロになり、空しく抜け殻のようになっていく。変化を求めず、成長もしない典型的なボーダーであるユー・ホンに救いはあるのだろうか。洗練されたコスモポリタンとして現れたかつての恋人と再会するラストシーン。ユー・ホンは、カサカサとひび割れした日常を引きずったまま、子どもが着るような薄いピンク色のフードの付いたコートにぼってりと厚着をして、輝きはない。

締めくくりに「光を求めれば、闇を怖れることもない」という言葉がある。この言葉を何に重ねればいいのか。ユー・ホンが映し出しているのはいったい何なのか、ずっとそれを考えている。
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MR.BLOOKS [映画]

順風満帆の人生を送っている男の、もうひとつの顔

穏やかな笑みを絶やさない紳士アール・ブルックスはふたつの顔を持つ。ひとつは成功した大物実業家で、豪奢な屋敷に住み、美人の妻と大学生の一人娘を愛する家族思いの顔。そしてもうひとつは見ず知らずの人間を残忍に殺す連続殺人鬼の顔だ。二つの顔を持つ男の二重の生活、そして二重の人格。複雑な内面を持つこの男は他人の心を読むことに長けている。演じているケビン・コスナーは静かな微笑みの中にダークな匂いを微かに漂わせ、それほど表情を変えないのがかえってリアルだ。

ニュースを見れば毎日毎日、殺人事件が起きている。どうして、そんなことばかり続くのか、よくわからない。放っておけば、いつか必ず人は死ぬ。それをなぜ殺すのだろう? 殺したら殺した瞬間から腐敗が始まるし、死体だって片付けなければならない。生きていれば自分で歩いて、どこかへ行ってしまうだろうに。

殺人鬼の動機はよくわからない。ただ、鳥の雛と同じように人間にも刷り込みがあるのだろうか。この映画の中でブルックスの一人娘もまた、殺人鬼の片鱗を見せる。子どもは身近な人間の潜在意識を感じる能力が高い。娘は幼い時に、父親の瞳に浮かぶ殺人鬼の歪んだ顔を覗き見てしまったのかもしれない。闇の中の鮮明な像。そして、一瞬のうちに刷り込みは完了する。

ブルックスは殺人中毒という依存症から逃れようと誓いを立てる。例えばアルコール依存症から抜け出すには、死ぬまで一滴も飲んではいけないという。一滴でも口にすれば快感が体中を駆けめぐり、それをまた味わいたくなってしまうからだ。ブルックスは2年間誓いを守っていたが、誘惑に負けてしまう。自分をコントロールすることはとても難しい。そして、自分自身の姿を的確に捉えることも難しい。ブルックスの傍らにはぴったりと寄り添う邪悪な陰の存在がある。「欲望を抑えることなんて必要ないさ。さあ、お楽しみを始めようじゃないか」ブルックスはその声に弱々しく抗ってみせるだけで、振り切ることはできない。見下げ果てた自分の姿をせめて家族に知られないうちに消してしまおうと決意するが、それさえもままならない。消えることも、人間らしく生きることもできず、彷徨い続けるしかないブルックス。わが身を呪いながら生きるなんてなんだかヴァンパイアみたいだけど、そこに悲壮感があまり感じられないのは罪悪に対する意識が薄いせいだろうか。罪悪感がない人間は、愚かな虫みたいだ。

(5/24日より公開〜)


Home Alone [映画]

子どもをひとりで家に残してはいけません!

舞台はクリスマスシーズンのシカゴ。ちょっと時季外れだけど、ふと思い出してDVDで初観賞を。主人公はマコーレー・カルキンくん演じる8歳の男の子。カルキンくんは、パパとママときょうだい5人の大家族でパリに家族旅行に行くはずだったのだけど、ちょっとした手違いから一人家に残されてしまう。そこに現れたのは、留守を狙う二人組の泥棒。いたずらっ子の本領を発揮して、カルキンくんが泥棒を見事にやっつけるというお話。「家はぼくが守る」と知恵を出して、泥棒にワナをかける仕掛けの数々はどれもイタイものばかり。ホント、子どものやることって残酷だよね。

家族に叱られて「みんないなくなれ〜」と呪文を唱えたら、本当にいなくなって独りぼっち。なんて笑えないシチュエーションだけど、ラストで家族が戻ってきて良かったね。ママの姿を見て、カルキンくんがちょっと拗ねたような表情を見せるのだけど。そうそう、子どもってこんな顔するんだよね。前に、迷子を保護したことがあって、その子がはぐれたお母さんと出会ったときに見せた表情もこんな感じだった。自分が勝手に動いて迷子になったとしても、拗ねて怒って……。ほんの少しの時間だったとしても子どもは見捨てられたみたいな気になって、それでママが現れたらほっとして怒っちゃうのかな。

こどもの日。世界中の子どもたちが、柔らかいもの、温かいもの、安心できるものに包まれて、幸せでありますように。

花よりもなほ [映画]

ヘタレ侍からエスパーまで、いろいろ見せてくれます岡田くん

テレビドラマ『SP』が終了したのはずいぶん前のことで、4月5日の特別編も終わってしまって、今は映画が公開されるのを指折り数えて待っているところ。毎回スピードの速い展開を追うのが楽しくて、終わってほしくないドラマだった。主演の岡田准一くんの役どころは要人警護に当たるSPで、ある種の気配にシンクロする超能力を持っている。岡田くんの存在感が濃厚で釘付け状態に。目力が強くて、思わずホンモノ? ではないかと思ったくらい。

脳波にはベータ波、アルファー波、シータ波、ガンマ波などさまざまな周波数がある。微妙な電気振動を、ラジオをチューニングするみたいに覚醒状態を変えて感じ取ることができるのだろうか。岡田くんは、誰かが悪いことをしようとする波動を敏感にキャッチする。周波数40Hz以上、脳の活動が非常に活発なときに出るガンマ波は、未来予知に関係するといわれているが本当のところはどうだろう。岡田くんの脳波はガンマ波という設定なのかな。じつは私も、暖かくて仄暗い場所で眠いような眠くないような状態になると、ときどき人の悪巧みや騙しや策略を察知してしまいます(って、嘘ですよ)。

さてさて。岡田くんの目力のことを思い出したら、2006年に観た映画『花よりもなほ』が甦ってきた。岡田くんは父の仇を追う江戸時代の若侍。貧乏長屋に住んでいるのだけど、この長屋住まいが案外居心地がよくて、ついぬくぬくしてしまって。幼い息子と暮らす武家の未亡人・宮沢りえのことが気になるし、住人は人懐っこい人たちばかりで和気あいあい。仇を見つけても、妻子と幸せに暮らしている様子を見ると気分はイマイチ乗ってこない。おまけに剣の腕だってさっぱりなわけだし。仇討ちは何だかどうでもいいような気分になっていく。ここでの岡田くんは力の抜けた柔らかな笑顔で、目力はない。うまいこと仇を討ってしまったことにするところに拍手喝采。アットホームな時代劇である。


P2 [映画]

他人事じゃない、すぐそこにある狂気

キーワードは、大都会の死角、恐怖、妄想、狂気、スプラッター……。この映画に出てくる主な登場人物は、高層ビルのオフィスで働く女性アンジェラと駐車場の警備員トムの二人だけ。舞台は深夜の地下2階駐車場「P2」。残業で遅くなったアンジェラは帰りを急いで車に乗り込む。だけど、なぜかエンジンがかからない。警備員のトムが「バッテリーの故障じゃないかな」と、にこやかにアンジェラの車を調べてくれる。ちょっとおしゃべりで笑顔がさわやかな青年トム。この笑顔が歪んでいくのに時間はかからない。以前からアンジェラに興味を抱いていたトムは、彼女に異常な形で「好意というもの」を示す。アンジェラをP2に監禁して、以前、彼女にセクハラをした上司に罰を与えるという狂気のプレゼント。

映画を観ながらふと思い出したのは、つい最近、目にした光景だ。「ぼく、もう、じぶんでできるもん」と自信たっぷりに自分勝手な行動をしている幼児が、少し離れたところにいる母親に「ママはあっちへ行っていなさい」と無邪気に命令する。その姿を見て、回りの大人が「いつもママに言われていることを、まねしているんだね」と笑いながら、その子どもに並んで待つことや、回りを見ること、人の話を聞くことを繰り返し根気よく教えていく。それだけのことなのだけど、その子どもにとって大切な時期に必要なことが為されていく過程を見たような気がした。

ある時期、子どもは幼児的な万能感を持つ。大人は、その万能感を少しずつ訂正しながら傷つけてやる必要がある。でないと、現実と向き合うことができにくい人間になってしまう。幼児的な万能感を心の中に抱いたまま大きくなってしまったら? 現実と向き合わなければならなくなったときに、脆弱な自我のままでは対処が難しい。傷が大きくなり過ぎて自分一人では受け止めきれず、自分よりも弱いものに攻撃を向けてしまいかねない。家庭内暴力に走ったり、自分の殻に閉じこもったり。あるいは、衝動的な感情をコントロールできずに犯罪に走ったり。いい子でいる仮面をかぶり続けていた場合などは、万引きをしたり、他人のものを失敬して喜ぶ軽犯罪でスリル感を味わうこともある。いずれにしても、犯罪の大小に関係なく、罪を犯したときは本人がその報いを引き受けなければならない。

さてさて、映画に戻ると。「好きだから」と言いながら、相手を思い通りにしようとしたり、自由を奪ったりするのは許し難い行為である。それは幼稚な人間のすることだ。トムの背景に何があるのかは描かれていない。生育歴をたどれば、おそらく保護者などに行動を縛りつけられたり、虐待されたり、あるいは甘やかされ過ぎたり、諸々のものが出てくるだろう。そうでなければ、これぼど独りぼっちで、自分一人で堂々めぐりをしたりしない。けれども、それが他人を自分勝手に扱う理由にはならない。自分の意思に反して閉じ込められたアンジェラはトムを激しく憎悪する。その、憎しみのこめられた瞳は真に迫るものがある。

誰にも自分を自由にさせない。相手に侵入しない。それが人とのつきあい方の最も大切なルールだ。


FLYBOYS [映画]

主演のジェームズ・フランコがちらりジェームズ・ディーンに似てる

ジェームズ・ディーンはナイーブな若者そのものだった。ちょっぴり陰があって、複雑な笑顔が印象的な人だった。複雑な笑顔というのは、ちょっと言葉で表現するのは難しくて、映像でならポンと出してコレですよと見せられるんだけど。と言っても、そういう笑顔ができる人は幼少期にたぶん大事な人と死別していたりしていて、誰でもがこんな笑顔を見せることはできない。
調べてみたら、ジェームズ・ディーンも9歳の時に母親を亡くしている。半分笑って、半分泣いているような、複雑な表情。こんな顔で見つめられたら、たまらんですぜ。こういうタイプに弱くて「この人は私がついていなくちゃダメになっちゃう」とメロメロになってしまう人も多い。ま〜、どちらかというと私もこの手には弱いほうだけど、あまり近づかないようにしています。自分で言うのも何だけど、父親は若いときにちょっとイケメンだったので、エディプスコンプレックスのようなものがあるのかも???
それはともかく、ジェームズ・ディーンは『エデンの東』『理由なき反抗』や『ジャイアンツ』といった映画に出演しているので、複雑な笑顔を見たいという人は、DVDでぜひ。

そんなジェームズ・ディーンにちらっと似ているジェームズ・フランコ。舞台は第1次世界大戦時のフランス空軍。そこに入隊したアメリカンたちが戦闘機乗りになってドイツ軍と戦うというストーリー。アクロバティックな空中戦は迫力がある。


戦争に行った父親は
飛行機に乗っていて、
白いシルクのマフラーを
ひらひらさせていたらしい。


MIDNIGHT EAGLE [映画]

なんか、泣けちゃった。

雪山に墜落したステルス爆撃機“ミッドナイトイーグル”を追うカメラマン、新聞記者、自衛隊、そして北の工作員たち。北アルプスを舞台に繰り広げられる山岳アクション堂々2時間20分!て、あれ? パンフレットを後から見たら上映時間が書いてないぞ。パンフを作成した時点では、まだ絞れてなかったってことかな。試写室で、映画が始まる前に映画会社の担当者が「上映時間は2時間20分です」と挨拶したときには、周囲にいたマスコミ関係者や広告関係ぽい人の間から、明らかに「ひええー、なげーな」という感じの溜め息が漏れたのだった。だけど、映画が始まってしまうと案外飽きさせない展開で、あまり長いって感じもなく泣けた泣けた。涙腺を刺激されたのは、切羽詰まったときに人がする決断という行為の残酷さ、父親としての態度に泣けたのだった。こうするしかないでしょという選択しか残されてないとき、人はあまりにも無力だけど、さばさばと自分の運命を受け入れる姿は清々しい。
ホントは玉木宏クン目当てで見に行ったのだけど、他の出演者たちが結構よかった。今まで、私の中では大沢たかおはあまり主役級の俳優という認識がなかったけど、存在感がある人だと思う。竹内結子もさまざまな表情を見せてたし。
山にもキャストにも、ステルスにもそれほど興味もなくて見たわけだけど、なんだか泣けて、見終わったらすっきりした気分で、デトックス効果アリ!な映画かも。


雪山の参考写真です。蓼科あたり。何か飛んでいます。
山登りよりskiがいいな。


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